「翻訳者はBookfinderである」

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つい最近まで軍隊では未知の地域での進路を探るために「スカウト」や「path finder」と呼ばれる者を使ったという。(path・finder n.[count]one who finds a way, esp.through wilderness or unexplored area.  RANDOM HOUSE WEBSTER`S DICTIONARY of American English) 彼らは文字どおり、普通の人間には見えない道を発見できる能力を持っていた。

 最近私が参加したある国際翻訳会議において、複数のセッションで話題になった問いがある。それは「つまるところ翻訳者の仕事、職務とは一体何だろうか」というものだ。この問いの答えは一見簡単であり、明白に思われたが、実際には出席した翻訳者や翻訳会社の代理人からは数多くの、極めて多様な答えが提出された。この事をきっかけとして、私は以前から表現したいと感じていたことをこの小さな記事にまとめることにした。つまり、翻訳者は上記のpath finderと類似する役割をもつ“bookfinder”であるべきではないか(もしかするとそちらの役割の方が主かも知れない)、ということだ。以下はその簡単な記述である。

 私は既に18年間フリーランスの翻訳者として仕事をしてきているが、その間ほぼ全ての時間を、ある言語で書かれた意味をもう一つの言語に移し変える、という作業に費やしてきた。「翻訳」といわれるものだ。もっとも時として原文の質が悪かったり曖昧だったりする場合には、書き換えたり創作することすらあったが。しかし、基本的な考え方は常にA(の言語)をB(の言語)に変換することである。過去十数年間にこの仕事を通して知り合った仲間の中で、このことに疑問を持ったり異義を唱えるものはほとんどいなかった。これは紛れもなく翻訳者の仕事なのだ。

 しかし、得意分野を持っている翻訳者なら、プロとして専門分野についてかなりの量の読書をこなしているだろうし、他の分野についても視野を広げるために興味を持った本を読むだろう。また、個人的に何か研究していればさらに多くの本を読むに違いない。このことが、翻訳者に独特の立場を与えるのではないか、と私は考ている。翻訳者は単に2つ、又はそれ以上の言語を、専門家として利用し評価する能力を持っているだけでなく、ある特定の題材に関して、これらの言語で書かれている関連書(レファレンス)を読むはずだ。それらの中には評価の高い本もあるだろうが、一般的な評価が存在しない場合がほとんど、といってよいだろう。この場合、翻訳者自身がそれらのレファレンスについて言語的、技術的に評価することになる。

 これは私見だが、現在市販されている翻訳書を見て、その選択が専門的知識に基づいてされている、とは思えないものがかなりある。このような場合、どの本を翻訳出版するかという出版社が下す決定は、かなり疑わしい情報や推薦に基づいて行われたのではないか、とすら思えてしまう。その結果われわれ一般読者にはかなり偏った、そして当然ながら、いかに沢山売るかという利益志向に基づいた出版物が提供されることになる。このことは、われわれが健全な世界(観)にアクセスする機会を大幅に限定することになってしまうのではないだろうか。

 一方、今日インターネットの普及によって、膨大な情報が極めて短時間で更新されていく「情報ハイウェイ」へアクセスすることができるようになった。しかし、この恐ろしいほどの情報量へのアクセスは、書籍が提供できる明確な、実用的な、包括的なそして興味ある情報へ視野を塞いでしまう可能性もある。私としては、読書は楽しみでもあるべきだ、と思っているのだが。つまり、インターネットが情報収集の手段として大変有益であるのを認めた上で、一体誰が高速道路(=インターネット)に面して建てられた家に住みたいと思うだろうか、という疑問がわいてくるのだ。私個人としては小さな裏道が好みである。ここに書籍の出番があるのではないだろうか。本を出版するのはウェブサイトを更新するより、遥かに時間がかかる。それは本の方が必ず、幾分か「遅れている」ということを意味しているのだが、それによって本の持っている価値が損なわれるとは思えない。

 私は日本在住のドイツ人だ。日本では町の普通の書店で、日本語に翻訳されたドイツ文学・科学などの本が無数に売られている。しかし、ドイツに帰国した折に大規模の書店を見てまわっても、ドイツ語に翻訳された日本の本は片手で数えられるくらいしか見つけられない。数年前、東京国際ブックフェアを訪れて、ドイツの出版社のブースに立ち寄った際、ドイツで日本の本を翻訳出版することに興味を持っているか、と質問してあっさり断わられたことがある。つまりこうだ。「いいえ、何故でしょうか。当社は既に2冊も出版したでしょう?」。これが毎年ドイツ国内で新刊を何千冊も出版する国の妥当な対応とは到底思えないのだが。その結果、世界の国々に経済で大きな影響を及ぼすスーパーパワーである日本は、相変わらず他の国々の人にとって、知的な面ではブラックホールのような未知の領域にとどまっている。これだけ情報ハイウェイがわれわれの生活深く浸透しているにもかかわらず、である。私にはその理由は、ネット上のバーチャルな資料とは違う、本のような手に取れる実体としての情報の少なさにある、と思えるのだ。

 ここに、翻訳者が国際理解のために本当に貢献できる分野があるのではないだろうか。翻訳する価値のある本を選び出す、推薦する役割が。場合によってはある本を推薦する翻訳者は、同時にその翻訳を担うことも考えられる。多くの場合、これは翻訳者にとって有利であるだけでなく、読者にとっても有益なのではないだろうか。