医療の後進国日本

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  - リソースの使用がお粗末 –

多数の方々は上記の発言に対する反応は「まさか」と驚く事に違いない。しかし最先端で極めて高価の技術を利用するだけは「発達」の兆候ではない。こうした技術や科学の進歩はあまりにも輝かしいから、もう少し自然に密着している人間らしい立場を見失う事も不思議ではないが、今こそまで築き上げた文明の力を発揮する所だ。

健康と統合医療
 先ず、健康に関してWHO(世界保健機関)の憲章前文では「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」(“Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.”)と定義されている。つまり、バランスが取れたら状態を言い、そのバランスが失われた時、全ての側面から取り戻す努力が必要だ。
 このような「包括的」な観点をもつ医療は昔から医療の原点でもある。最近これが「統合医学」又は「統合医療」(integrative medicine)と呼ばれ、世界中の注目を浴びている。しかし日本に於いて相変わらず西洋医学(保健医療)と他の医療体系(例えば東洋医学)の「混合医療」は禁止されている。西洋医学に完全頼り切っている。但し、その体系は論議の余地のないほど極めて高価で高度の技術をようする。その目標を実現に当たって要求されるリソースを考えれば国民のためになるとは思えない。WHOはこの問題を既に1983に出版された ”Traditional Medicine and Health Care Coverage” (日本語版:1995「世界伝統医学大全」) 取り上げた。世界各地の人々の保健を充実したいならば、その地域や文化に従来から利用されている手段を検証し、十分の利用価値を裏付けるものなら最先端の技術と統合しなければならない。後にこう言った概念を踏まえて”HFA2000” (Health For All by the year 2000、全世界に於いて)計画が発表された。2004年現在でも実現まで至っていないし、高価の西洋医学のみでは不可能だと判断せざるを得ない。

リソース ― 人材、予算、知的財産


 数多くの大病院にそれこそ多数の医師が勤めている。予約があるのに長時間に待たされた挙句の果てに実際の診察/治療の時間は僅かである事実は医師の数が足りない発展途上国と大差がないように見受ける。
 ある程度(かなり)裕福の家庭出身でないと現時点日本に医学を勉強する事が難しいのは、最適の人材を育成するも困難である事を別問題にしても、次のヘッドライン(その横に「ある小児科医師の死」もあった)は貴重な人材を粗末する事示唆する。(その事は無論他の人材に関しても適応する。)過労死になるまで働かせるほど医師の数が足りないはずはないでしょう。無論「医者の不養生」と言う言葉を知らない人はいないでしょう。自分、又は自分の部下、の健康管理がそれほど出来ないものは説得力のある健康指導に務められない。

 「診察」の概念も流れ作業と勘違いされているかもしれない。辞書によれば「【診】: {動}みる。みおとしのないようにすみずみまでみて、その事がらについて判断を下す。よくみる。」がある。だが何かを「よく」みたいならば、それなりの時間をかけることが必要です。現在実際の状況は異なっても、且つで日本の医療に強い影響を及ぼしたドイツでは「外来診療」を “Sprechstunde” と言う。直訳では「話す時間」です。「財源不足」に悩まされている日本に於いても即検査やハイテックの駆使に走る事を一旦後回しにして、再びこの「良く診る、ゆっくり話す時間」の原点に戻るとよい。時間を掛けて良く診る事は殆どの伝統医療の一つの特徴でもある。

 又、上記に「小児科」と言う例を上げた西洋医学領域は多数の「専門分野」に分けられ、そして更に細分化する傾向がまだまだ続く。「専門家」がいることは当然に頼もしいと必要ですが、専門の事しかしないなら視野が大変狭くなり、冒頭に記載したWHOによる健康の定義に基づく保健診療は難しくなる。ある患者の実話によると「新生児の孫が風邪ひいたらしいから開業小児科に連れたが、そこで新生児を診察できないから、大病院に行くように言われた。」

経験と「勘」対EBM、技術的なリソース


人材の他に技術的や知能的なリソースにも無駄の部分が多い。左記のヘッドラインにはそれなりの根拠があるけれども、「進歩」と言う概念(信念?)に視野が塞がられ、医療の原点である触診などが軽視あるいは廃止されると、診察の際即に高価の技術を利用する事になる。矢張り患者の実話ですが、肩の痛みを訴えて病院で診察を受けたら、医師が触診もせず、MRI検査を注文した。触診でその病態が凡そ分かってしまうが、点数が全くあるいは僅かにしか請求できないので、患者の自己負担でさえ2-3万円掛かる検査は日常の臨床の基本になると、保険制度の崩壊は目に見える。ハイテックの画像診断機器や高度の技術を要する検査方法を利用することだけでは、その医療体制が本当にに「発達した」とは言えるでしょうか。

情報及びコミュニケーション

歴史的の背景によって日本に於いて医者-患者の独特の関係を築いたが、その時代の終止に向かっている気配はある。

医者は基本的「職人」であるにも拘わらず、「医者様」と呼ばれる事決して珍しくない。そうすると医者が患者より「偉い」と言う感覚で診察が行われる。つまり、患者と医者は同レベルの人間ではなく、医者の地位は患者より上から上下関係になる。だがどの上下関係においても「下」の者は「上」の者に対してある程度遠慮する。つまり、外来における医者の質問「如何ですか」に対して患者が「おかげさま」と答えるシナリオは誰でも知っている。だがそれで医者に診察に必要な情報が十分提供されない。

 医者は患者が診察の際同時に他の治療も受けているかどうかと聞かれる患者は多分全国的にも少ない。例え「はい」と答えたら、どんな先生はどう言う治療を施しているかを尋ねることは滅多にないに違いない。左記のヘッドラインにも拘わらず医者同士のコミュニケーションは本当に乏しい。これは先進カ国の高度発達した医療制度の本当の姿なのか。そして治療効果の判定は当然「自分」が施している治療のみによるものだと思われ危険が高い。

 一人の患者に多数種の薬を処方されるのも一般的ですが、それぞれの薬品が認可されるために行われる臨床試験において大体一種の薬しか検討されない。薬物相互作用に関して2種、多くて3種までが調べられる。同時に8種や10種、場合によって異なる医療機関に重なるような薬を処方される方においてこの組み合わせはこの患者に於いて本当に安全かどうか誰も知らない!これこそ先進国が目指しているEBM (evidence based medicine) で示されている目標より遅れているかを証明している。

 また、最近「自然」或いは「漢方」もブームとなっているように見受ける。当然、医療体制はこれを商売のチャンスとして見逃すことは出来ないので、多数の医療施設に「漢方処方」を宣伝し、厚生省はおよそ120種の漢方薬を保険診療のために認可した。製薬会社はそれらの薬の使用目標を手帳にまとめ、病名別や症状別に漢方薬を選択、使用できるようになった。だが漢方薬の使用にあたって漢方医 学独自の概念があって、それを無視すれば本来の漢方薬の良さは発揮できなくなる。6-7年程前に「少柴胡湯」と言う漢方薬が慢性肝炎を目標として使われた際、数人の患者が死亡した事件もあった。それ以来厚生省は漢方薬は危ないと危機を感じ、例の漢方処方の説明書にその危険を赤文字で示されるようになった。しかし、それは漢方薬が危ないではなくて、その使い方を完全に無視している医者が悪い。そこで又上記のヘッドライン(広告)はこの国がいかにも遅れていることを物語っている。東洋医学の1300年の伝統を無視してたった150年で医療現場を制覇し、オールマイティだの現代医学として「日本初」は随分お粗末の気がする。
 

 

この写真はある施設についての記事にあった。この施設は特に裕福ではない方の世話をしていたそうです。施設の職員も頑張っているに違いないが、私は外国人としてどうしてもその「安らかに」とお骨の上に置いてある娯楽ビデオと横にあるビジネス電話帳のコントラストに驚愕した。スペースはいくら限られているにしても、これが余りにも情けないです。多分第三世界では死者に対してもう少し品のある態度を取るではないでしょうか。

  • お骨の上に娯楽ビデオ、その横にビジネス電話帳

この写真はある施設についての記事にあった。この施設は特に裕福ではない方の世話をしていたそうです。施設の職員も頑張っているに違いないが、私は外国人としてどうしてもその「安らかに」とお骨の上に置いてある娯楽ビデオと横にあるビジネス電話帳のコントラストに驚愕した。スペースはいくら限られているにしても、これが余りにも情けないです。多分第三世界では死者に対してもう少し品のある態度を取るではないでしょうか。
お骨の上に娯楽ビデオ、その横にビジネス電話帳  

結語


 現代医学という表現は略イコール「西洋医学」と使われ,この領域に於いて目覚しい進歩が続き、20年前に夢にも想像できなかった技術で今まで不可能と思われたものを可能にするつつある。しかし、同時に進む「専門化」によって視野が極めて狭い「専門馬鹿」も増えている。受診すると臓器や病症ごとに取り扱われ、その医療体制は機械化して来た。「部品交換」や「修理」される患者には骨の髄まで凍りそうな冷たいものだ。

 一方、世界中のどの文明で、どの時代にもあった包括的な医療体制は局所のみではなくて、人間を見る温かいものだ。緊急事態や診断技術などの分野には現代医学の代わりにはなれないが、これらの伝統的な手段は国の財源不足の解消に貢献できる上に国民の知的財産でもある。健康管理は完全に専門家に任せるべきではない。医療従事者の第一の使命は患者を病気から守って、そして病気に掛かった場合出来る限り早くまた自立させることだ。残念ながらこの「理想」は今の時代に「利益」の信念に負けているようです。

 日本において東洋医学1300年の歴史あるので、本来この分野で世界のリーダーでもあるべきだが、情報発信地として全くと言えるほど機能していない。上記のWHOが発行の本は日本語に翻訳されているが、WHOの正式のホームページに日本語翻が記載されていない。他の言語はある。中国は世界的レベルで東洋医学思想を支配されているようだ。日本独自の業績でさえ海外では当然のように中国の発想だと思われることが多い。そして、伝統医学と保険の問題や科学的な研究等などに関しても日本はアメリカを見て、真似てしまうことが目立っている。
それでも日本は先進国といえるでしょうか。